トラウマとは?

トラウマ(Trauma)とは、圧倒的な体験が通常の心理的処理能力を超え、心に深刻な傷を残した状態を指します。事故・災害・暴力・性被害・喪失体験など、その種類は多岐にわたります。重要なのは、出来事の客観的な深刻さだけでなく、その体験が当事者にとってどれほど圧倒的に感じられたかがトラウマの形成に関わるという点です。

トラウマ体験は、脳の記憶処理システム——特に扁桃体(感情的記憶)と海馬(文脈記憶)——に影響を与え、通常の記憶とは異なる断片的・感覚的な形で保存されます。そのため、トラウマ記憶は過去の出来事として処理されず、現在の脅威として繰り返し体験されることがあります。

トラウマの種類

単回性トラウマ(タイプI)は交通事故・自然災害などの一度きりの出来事によるもの。複雑性トラウマ(タイプII)は虐待・DV・戦争捕虜体験など繰り返し・長期にわたる対人トラウマで、より広範な心理的影響をもたらします。

PTSDの理解

心的外傷後ストレス障害(PTSD: Post-Traumatic Stress Disorder)は、トラウマ体験後に生じる特徴的な症状群です。DSM-5(米国精神医学会の診断基準)では、トラウマへの直接体験・目撃・間接的曝露によって引き起こされるとされています。

PTSDの三主徴

侵入症状(フラッシュバック)

トラウマ記憶が意志に反して侵入してくる症状。フラッシュバック(まるで今起きているような鮮明な再体験)、悪夢、強烈な心理的苦痛・生理的反応が含まれる。

回避症状

トラウマを思い起こさせる刺激(場所・人・考え・感情)を積極的に避けようとする症状。生活範囲の縮小、感情麻痺、解離、重要な活動からの引きこもりが生じる。

過覚醒症状

神経系が常に「危険モード」に入っている状態。過剰な驚愕反応、睡眠障害、集中困難、過敏な警戒心、易怒性・攻撃的行動が特徴的。

認知・気分の陰性変化(DSM-5追加)

トラウマに関する否定的な信念(「世界は安全でない」「私が悪い」)、持続する恐怖・恐怖・罪悪感、重要な活動への関心の低下、他者からの疎外感。

AIP(適応的情報処理)モデル

EMDRの理論的基盤となる適応的情報処理(AIP)モデル(シャピロ)では、脳には本来、困難な体験を処理・統合する自然な癒しのシステムが備わっていると考えます。トラウマ体験はこのシステムが機能停止した際に、不完全な形で記憶に固着します。EMDRはこの停止したシステムを再起動させると理解されています。

EMDR(眼球運動脱感作再処理法)

EMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動脱感作再処理法)は、1987年にフランシーン・シャピロが偶然の発見から開発したトラウマ治療法です。シャピロは散歩中、眼球を素早く動かすことで困惑した考えの強度が自然に低下することに気づき、これを体系的な治療法として発展させました。

EMDRの中核的特徴は、二重注意刺激(Dual Attention Stimulus)と呼ばれる手続きです。クライエントがトラウマ記憶を心の中に思い浮かべながら、同時に治療者の指の動き(または音・触覚刺激)によって左右交互の眼球運動を行います。この「過去の記憶」と「現在の外部刺激への注意」を同時に保つことで、記憶の再処理が促進されます。

EMDRの主な特徴

  • 言語化を必須としない:トラウマ体験を詳細に語ることなく処理できるため、言語化が困難な場合や再トラウマ化のリスクが高い場合にも適用できる
  • 比較的短期:単純な一回性PTSDでは8〜16セッション程度での改善が報告されている
  • 強固なエビデンス:WHO・NICE(英国)・ISTSS(国際トラウマティックストレス研究学会)がPTSDの第一選択治療として推奨
  • 身体感覚への注目:認知・感情だけでなく、トラウマ記憶と結びついた身体感覚の変化も処理対象とする
  • ネガティブ認知からポジティブ認知へ:「私は無力だ」などの否定的自己信念を「私は対処できる」などに変容させることを目指す
なぜ眼球運動が効果的なのか?

眼球運動のメカニズムについては複数の仮説があります。最も有力なのはREM睡眠類似仮説で、左右交互の眼球運動がREM睡眠中の夢処理に類似した神経メカニズムを活性化し、記憶の統合・脱感作を促すという考えです。また、作業記憶理論では、眼球運動が作業記憶の容量を圧迫することでトラウマ記憶の鮮明さ・感情的強度が自然に低下すると説明しています。

EMDRの8段階プロトコル

EMDRは標準化された8段階のプロトコルに基づいて実施されます。各段階には明確な目的があり、段階を踏んで安全かつ体系的にトラウマ処理が進みます。

1
病歴聴取・治療計画

トラウマ歴・現在の症状・生活機能を評価し、処理するターゲット記憶を特定する。過去・現在・未来の三側面から標的を設定する

2
準備

EMDRの手続きを説明し、安全な場所のイメージ・感情調節スキルなどリソースを構築する。クライエントがセッション間の困難に対処できる基盤を整える

3
アセスメント

ターゲット記憶の最も辛い場面・映像を特定。ネガティブ認知(NC)とポジティブ認知(PC)を設定し、感情の強度(SUD: 0-10)とポジティブ認知の真実味(VoC: 1-7)を評価

4
脱感作(Desensitization)

標的記憶に注目しながら眼球運動セットを繰り返す。SUD(苦痛度)が0〜1になるまで継続。連想のチェーンに従い、関連記憶が自然に浮かぶまま追う

5
植え付け(Installation)

ポジティブ認知(PC)を標的記憶と結びつけながら眼球運動を行い、VoC(真実味)を7まで強化する

6
ボディスキャン

ターゲット記憶とPC を心に保ちながら全身をスキャンし、残存する身体的緊張・不快感があれば追加の眼球運動で処理する

7
クロージャー

処理が未完了の場合でも安全に終了できるよう、安全な場所のイメージや感情調節技法を使ってクライエントを安定した状態に戻す

8
再アセスメント

次回セッション冒頭に、前回処理した記憶の状態を確認。SUD・VoCの変化を評価し、処理の完了または継続を判断する

トラウマ焦点化CBT(TF-CBT)

トラウマ焦点化認知行動療法(TF-CBT: Trauma-Focused Cognitive Behavioral Therapy)は、コーエン、マナリノ、デブリンジャーが開発した、主に子ども・青少年とその養育者を対象としたトラウマ治療プログラムです。通常12〜25セッションで実施され、児童虐待・性的虐待・複数のトラウマ体験に対して強力なエビデンスを持ちます。

CRAFTモデルのコンポーネント

  • 心理教育(Psychoeducation):トラウマとPTSDについての教育。「これは正常な反応だ」という理解が回復の基盤になる
  • リラクセーション(Relaxation):腹式呼吸・漸進的筋弛緩法などで自律神経系を整える技術を習得
  • 感情調節(Affective modulation):感情の識別・表現・調節スキルを強化する
  • 認知的対処(Cognitive coping):出来事・思考・感情の三角形を理解し、トラウマ関連の否定的認知に取り組む
  • トラウマナレーション(Trauma narrative):トラウマ体験を段階的に語り・書き・絵に描くことで記憶を処理・統合する中核的コンポーネント
  • 実生活での統合(In vivo mastery):回避している場所や状況に段階的に曝露し、恐怖反応を低減する
  • 養育者との合同セッション:子どものトラウマ体験を養育者と共有し、家族全体の回復を促進する
TF-CBTの特徴

TF-CBTの特徴は、子どもと養育者を並行して治療する点にあります。養育者がトラウマの影響を理解し、子どもの回復を支える力を高めることで、家庭環境そのものが回復の資源となります。強い苦痛を引き起こすトラウマナレーションには十分なスキル構築を先行させる「ティアドロップ(涙型)」モデルが採用されています。

ソマティック・エクスペリエンシング

ソマティック・エクスペリエンシング(SE: Somatic Experiencing)は、ピーター・レヴィンが開発した、身体感覚に焦点を当てたトラウマ解放アプローチです。レヴィンは野生動物が命の危険にさらされながらも慢性的なトラウマを発症しない理由を研究し、動物が本能的に行う「震え・放電」という身体的な覚醒エネルギーの解放を、人間の治療に応用しました。

SEの基本概念

トラウマは身体に宿る

トラウマの症状は「凍りついた」生存反応エネルギーが神経系に蓄積されたもの。認知的処理だけでなく、身体レベルでの解放が本質的な回復に不可欠とする。

タイトレーション

トラウマ体験に一度に全面曝露するのではなく、少量ずつ(タイトレーション)身体感覚に近づく。圧倒されない範囲でトラウマエネルギーを処理する安全な方法。

振り子運動(ペンデュレーション)

苦痛な感覚と安全・穏やかな感覚の間を振り子のように行き来することで、神経系の柔軟性を回復させる。過覚醒と低覚醒の両極を超えた「耐性の窓」内での処理を目指す。

完了動作

凍りついた逃走・闘争反応を身体的に完了させる。微細な身体の動き(手を押し出す・足を踏む等)を通じて、未完了の生存反応を終結させる。

ポリヴェーガル理論との接点

スティーヴン・ポージェス(Stephen Porges)が提唱したポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory)は、現代のトラウマ療法に革命的な影響を与えています。この理論は、自律神経系が三層の階層構造を持つとし、社会的関与→闘争逃走→凍りつき(シャットダウン)の順で生存反応が発動されると説明します。トラウマ治療は、凍りついた状態から段階的に「社会的関与システム」を再起動させるプロセスとして理解されます。

複雑性トラウマへの対応

複雑性PTSD(C-PTSD: Complex PTSD)は、ICD-11(WHO国際疾病分類第11版)において正式に診断カテゴリーとして採用された概念です。長期にわたる対人間トラウマ(幼少期虐待・DV・人身売買など)によって生じ、通常のPTSD症状に加えて以下の特徴的な症状が認められます。

  • 感情調節困難:激しい感情の波・感情麻痺・持続する抑うつや絶望感。感情が溢れるか全く感じないかの両極
  • 自己概念の変化:深い恥・罪悪感・自己嫌悪。「自分は傷物だ」「価値がない」「回復できない」などの中核的信念
  • 対人関係困難:他者を信頼することの困難・親密関係での再演・解離症状

複雑性トラウマへの段階的アプローチ

ハーマン(Judith Herman)が提唱した三段階モデルは複雑性トラウマ治療の標準的枠組みとなっています:

1
安全・安定化

身体的安全の確保、感情調節スキルの習得、信頼できる治療関係の構築。この段階を十分に行わないと次の段階での再トラウマ化リスクが高まる

2
トラウマの処理・悼み

EMDR・ナラティブ療法・感情処理などでトラウマ記憶を処理・統合する。失ったものへの悼みも重要な治療課題

3
再統合・再接続

日常生活・人間関係・アイデンティティの再構築。トラウマサバイバーとしてではなく、より豊かな自己像を確立し社会とつながる

解離と複雑性トラウマ

複雑性トラウマには解離症状が高頻度に伴います。解離とは、統合された意識・記憶・アイデンティティが断絶した状態で、現実感の喪失・離人感・健忘・解離性同一性障害などが含まれます。van der Hartらの人格の構造的解離理論(TSDP)は、トラウマによる人格の分断を理解する有力な枠組みとして採用されています。解離が顕著なケースでは標準的なEMDRを修正し、段階的・慎重な処理が必要です。

まとめ

EMDR・トラウマ焦点化療法は、過去の傷ついた記憶を過去のものとして処理・統合し、現在の生活を取り戻すことを目的とした有効なアプローチ群です。

各アプローチの比較

EMDR

二重注意刺激でトラウマ記憶を直接処理。言語化が少なく比較的短期。PTSDへの強固なエビデンス。AIPモデルに基づく体系的プロトコル。

TF-CBT

認知行動療法的アプローチで子ども・青少年に特化。養育者を治療に巻き込む。トラウマナレーション中核。虐待・性的被害に強いエビデンス。

ソマティック・エクスペリエンシング

身体感覚に焦点。神経系レベルのトラウマ解放。言語化困難なケース・身体症状が強いケースに有効。ポリヴェーガル理論と統合。

複雑性トラウマへの段階的治療

安全化→処理→再統合の三段階。長期的・包括的アプローチ。C-PTSD・解離症状には修正プロトコルが必要。治療関係そのものが治療資源。

トラウマ治療の共通原則は、安全・選択・協働・信頼・エンパワーメントというトラウマインフォームドケア(TIC)の精神にあります。トラウマ体験者が自分のペースで、過圧倒されずに回復の道を歩めるよう、治療者はこれらの原則を常に守ることが求められます。

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